性善説と性悪説 - Childhood's End

性善説と性悪説

古代中国のインテリジェンスについて、日本人は常に尊敬の念を抱き、語り継いできた。その中で最も有名な部類の命題が「性善説」と「性悪説」である。

日本人ならほとんどが知ってるから説明不要だとは言わないで欲しい。

 

一般的に性善説とは「人の本性は善であり、正しく導かれなくては容易に悪に落ちてしまう。」とする孟子の思想である。

 

一方で性悪説とは「人の本性は悪であり、善とは偽(ニセモノ)の状態である」とする荀子の思想である。

 

これらを相反する2つの命題として捉えている人はとても多いが、それでは十分に理解しているとはいえない。どういうことか?

 

ここで重要なのは孟子が性善説を唱えたのと時を同じくして荀子が性悪説を唱えたかのような錯覚を持っている人は多いが、実質彼ら二人の活躍年代には数十年の隔たりがあるということをまず理解してほしい。また孟子の性善説に関する言及とされる資料はとても多く残っているが、荀子の言葉はそれよりもずっと少ないとされている。

 

これが示すのはまず性善説という大きな命題についての提唱があり、数十年の時を経て加えられた視点を変えた注釈あるいは問いかけ、という形で加えられたのが性悪説であるという事実が浮かび上がってくる。それを踏まえて、性悪説に対する単なる反論や問いかけでは決してない。だとすれば数十年の時間など必要とせず、その場で孟子に直接問いかけるものがいただろう。

 

荀子が性悪説を提唱した目的はおそらく、性善説の補完である。

性善説を命題として捉えた場合、人の本性が善であれば真、悪であれば偽である。では人の本性が「善でも悪でもある場合」においてはどうか?

この問いかけを真にするための追加の条件として荀子は性悪説を提唱している。

 

「人の本性は善であり、正しく導かれなくては容易に悪に落ちてしまう。」「人の本性は悪であり、善とは偽(ニセモノ)の状態である」この2文が導く結論は矛盾しない。

 

“従って正しい教えによって自らを律することが君子となる道である”

 

孟子と荀子は同じ結論に至るための2つの道を示したにすぎない。ここで日本人ならどちらの説も知っているので説明不要だという序盤の一文を思い出してほしい。

性善説を知る者は悪に誘惑された時、自身の善性を意識し抵抗する意思を示すことが出来る。また性悪説を知る者は自身の悪性を意識し正しい道を探す努力を継続する努力をするだろう。悪に抵抗し、善なるみちを探す心こそまぎれもなく「良心」である。

 

良心について子供に教える為に書かれた寓話、比喩的論法はあまたあるが、一切の回り道を必要とせず、端的に良心について教えたいと思ったとき、極限まで無駄のない性善説と性悪説の2文を引用するだけで良心を理解させることが出来るのである。

 

古代中国のインテリジェンスの深みの一端である。